中国の科挙制度 完全ガイド

1300年以上にわたり、科挙は東アジアで誰が官職に就けるかを決める制度であり、生まれではなく試験の成績によって官吏を選ぶという考え方を切り拓きました。成立から廃止までの流れを紹介します。

科挙制度の始まり

隋の時代に初めて導入され、唐の時代を経て制度として定着した官吏登用試験です。それ以前は家柄によって官職が大きく左右される九品中正制が主流でしたが、科挙は試験の成績によって人材を登用するという点で画期的な変化とされています。

科挙の段階

明・清時代を基準にすると、地方で行われる郷試、都で行われる会試、そして皇帝の前で行われる最終試験である殿試まで、いくつもの段階を経てようやく最高位の合格者になれました。

挙人と進士

郷試に合格した者を挙人、会試と殿試までをすべて通過した者を進士と呼びました。進士は科挙における最高の栄誉とされ、古典文学の中でも立身出世の象徴としてしばしば登場します。

状元

殿試で首席合格した者に与えられる称号です。現在でも東アジアの各国で「試験で1位になる」ことを指す慣用表現として広く使われています。

八股文

明・清時代の科挙で求められた定型化された文体で、儒教経典の解釈を8つの固定された部分に沿って論じることが求められました。形式に縛られすぎているという批判も絶えませんでした。

科挙制度の廃止

19世紀後半に西洋列強との衝突を経験する中で、近代的な教育制度の必要性が高まり、1905年に清朝が正式に科挙を廃止しました。これは1300年以上続いた制度の終焉であり、近代教育への転換点とされています。

建前としては、生まれではなく実力

科挙が導入される以前、中国の官職はほぼ家柄によって決まっていました。科挙はこの流れを変え、少なくとも理論上は身分に関係なく誰もが試験の成績によって官職に就ける道を開いたという点で、東アジアの官僚制の歴史における大きな転換点とされています。

東アジア各国に広がった制度

科挙は中国だけでなく、朝鮮やベトナムなど周辺国にも伝わり、それぞれの国の事情に合わせて変形されながら運用されました。そのため「試験で首席になる」に相当する表現が、現在でも複数の東アジアの言語で共通の慣用句として使われています。

よくある質問

科挙は本当に誰にでも開かれていたのですか?

理論上は、商人や最下層の身分など一部の層を除く男性であれば受験できました。しかし実際には、長年の教育を支える経済力が必要だったため、現実にはある程度の経済的基盤を持つ家庭の出身者が有利な構造でした。

科挙はなぜ廃止されたのですか?

19世紀後半、西洋列強との衝突を経験する中で、儒教経典を中心とした従来の試験制度では近代的な人材を育成できないという認識が広がり、最終的に1905年、清朝が近代的な学校制度への転換を目的として正式に廃止しました。