明清交代期、朝鮮が直面した選択
17世紀初め、中国大陸では衰退する明と新たに台頭する後金(清)の間で力の均衡が急激に変化していました。この激動の時期に朝鮮がどのような外交路線を選ぶかは、国家の存立に直結する重大な問題でした。
親明排金政策の根は朝鮮建国理念にありました
朝鮮が新興国である後金の代わりに衰退する明との義理を守ろうとした背景には、性理学的名分論に従い明を中華文明の宗主国として仕えてきた朝鮮建国以来の長い外交伝統がありました。朝鮮がどのような理念の上に建てられた国だったかは、朝鮮建国概要で確認できます。
よくある質問
丁卯胡乱と病子胡乱はどう違うのですか?
丁卯胡乱(1627年)は後金が起こした第1次侵入で「兄弟関係」を結ぶ形で収まりましたが、病子胡乱(1636年)は国号を清に改めた後、朝鮮に君臣関係を強要して起こした第2次侵入で、仁祖の降伏で終わりました。
三田渡碑は今も残っていますか?
はい、清の太宗の要求により建てられた三田渡碑(大清皇帝功徳碑)は、元の位置と推定されるソウル松坡区石村湖水付近に移され現在まで保存されており、病子胡乱の屈辱を記憶するための歴史的遺跡として残っています。